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根城南部氏(遠野南部氏)

南部氏は多くの支族を抱えていたが、その中で南部師行は南部氏としては記録上初めて、南北朝時代に北畠顕家に従って奥州に下向した。師行は糠部の八戸の地に根城(現在の青森県八戸市根城)と呼ばれる、従前に工藤氏の拠っていた城を接収し、居城とした。師行が一時、工藤氏を称していたとの説もある。

南部師行の子孫は八戸氏を称し、一般には根城南部氏と呼ばれる。従来、根城南部氏は南部氏の有力な分家として見られてきたが、近年の研究では、根城南部氏が当初は南部氏の宗家に位置付けられていたと推定されている。いずれにしても、根城南部氏は南朝を支持していたために南朝の衰退に伴って14世紀半ばからは次第に力を弱めたが、17世紀前半までは下北地方などを領有し、南部氏のなかでも比較的大きな勢力を有していた。

元和3年(1617年)には、所領のうち下北地方を、幕藩体制下で宗家としての地位を確固たるものにした三戸南部氏(盛岡南部氏)によって接収され、寛永4年(1627年)に遠野(現在の岩手県遠野市)に移される。これ以後の根城南部氏は遠野南部氏と呼ばれ、江戸時代を通じ、盛岡藩の世襲筆頭家臣であった。なお、遠野南部氏が、日蓮に帰依し身延(現在の山梨県南巨摩郡身延町)の地を寄進したとされる八戸実長(波木井実長)の子孫を称するようになるのは江戸時代後期になってからである。

三戸に根拠を置いた系統は三戸南部氏と呼ばれる。三戸南部氏の系譜は明確ではないが、南北朝時代に奥州に下向した南部氏の一族と見られている。従来、三戸南部氏は鎌倉時代にこの地に下向した南部氏の宗家と考えられてきた。三戸南部氏は南北朝時代には北朝を支持していたが、いつごろ南部氏の宗家としての地位を築いたのかははっきりしない。
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根城南部氏も場合によっては三戸南部氏とほぼ同格の存在として見なされることがあり、戦国時代には九戸氏も南部氏一族の有力者として幕府に認知されており、少なくとも室町時代から安土桃山時代にかけての南部氏には宗家と呼べるような確固たる権力を所持する家が存在しない同族連合の状況であった。根城南部氏の当主とされている南部信長が上洛して武田信虎(武田信玄の父)の世話になって室町幕府の第13代将軍足利義輝に拝謁したという記録の存在も指摘されている。

このような曖昧な状況に終止符が打たれたのは、豊臣秀吉による、いわゆる「天下統一」事業により、三戸南部氏の当主である南部信直が所領を安堵され、また津軽為信に与えられた領土の代替地として閉伊郡、和賀郡、稗貫郡が与えられたころである。近世大名として同族連合を否定し、有力一族も家臣として服属することを求められたことに反発した九戸政実は信直と激しく対立する。秀吉は政実を近世的秩序である「豊臣の平和」への反逆者として全力で討伐を開始する。政実は滅ぼされ、全国的にも近世秩序を再確認する契機にもなった。

その後、居城を三戸から盛岡に移し、根城南部氏に対しては遠野への知行替を行い、三戸南部氏は大浦南部氏以外の南部氏を家臣化することに成功し、宗家としての地位を確立した。

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2009年06月05日 10:37に投稿されたエントリーのページです。

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